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静岡県浜松市の野菜直売所「あったか農場」

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社長が目指すもの

社長が目指すもの⑤ 篠原たまねぎを守り続けてきた先輩農家しょうごさんの物語

篠原たまねぎを守り続けてきた先輩農家しょうごさんの物語

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はじめに
あったか農場の最重要作物である篠原たまねぎ。その原点とこれまでの歩みに貢献してきた先輩農家の方の体験を記録として後世に残すため、篠原たまねぎ栽培歴50年のベテラン農家、山下しょうごさん(82歳)にお話を伺いました。

2025年12月
聞き手 あったか農場 渥美隆裕・渥美敦子

33歳、父の死と農業への道

しょうごさんが農業を始めたのは33歳の時でした。それまでは会社員として働いていましたが、お父様が亡くなったことをきっかけに、急遽畑を継ぐことになりました。

「親父が死んで、お袋と3人でやることになった。33歳の時だった」

当時は浜北の会社に勤めていたしょうごさん。長男としていつかは家を継ぐと思っていたものの、まさか30代前半でこんなに早く農業を始めることになるとは思っていませんでした。会社を辞める決断をした時、お子さんは幼稚園に通う年齢でした。

「土地があるから、やらざるを得なかった。当時は長男が家を継ぐものだと思っていた」

すべて自己流 ― 誰にも教わらなかった50年

しょうごさんの農業は、まさにゼロからのスタートでした。

「1度も人に教えられたことない。全部自分。畑も何も見たことない。」

すべて自分で試行錯誤しながら技術を磨いていきました。

「やってみて、これはダメだな、こうしたらいいかなって。全部自己流」

食事の時には、家族で畑の様子を話し合いました。

「あの畑のこっちの方がちょっと葉が細いとか。そういう話は今でもする」

お母様、そして奥様と一緒に、畑の様子を観察し、肥料の量を調整したり、水やりのタイミングを工夫したり。毎日畑に足を運び、たまねぎの様子をじっくり見ることが、しょうごさんの農業の基本でした。

「畑に足を運ぶこと。これが1番大事だと思う」

種を分けてくれた先輩

地元の先輩農家の方が、しょうごさんを温かく見守ってくれていました。

「周りに恵まれてたよ。僕は若かったから。地域のおじさん、おばさんがやっぱり目をかけてくれてね」

ある日、先輩農家の方が声をかけてくれました。

「若い人に種を継続してほしいって。俺んとこに持ってきてくれたの」

それが、今のしょうごさんのたまねぎの元になった種でした。

「その種をもらってからは、自分で種を作り続けてきた」

当時は開封検査の時代。出荷されたたまねぎは、箱を開けて中身を確認されました。先輩農家の方々は、しょうごさんのたまねぎを見て、丁寧に栽培・選別していることを評価してくれていたのです。

「選別も丁寧にやってるって。それで目をかけてくれたんじゃないかな」

種を分けてくれるということは、ただ単に種を渡すだけではありません。その土地の気候に合った、長年かけて育てられてきた貴重な種を託すということ。それは、若い農家への信頼と期待の証でした。

11月収穫への挑戦 ― ビニールマルチとの出会い

しょうごさんが農業を始めた当時、たまねぎの収穫は4月1日からでした。

「10月20日に植えて、4月1日にならないと取れなかった」

しかし、しょうごさんは早く収穫できないかと考えました。早く出荷できれば、高く売れる。生活のためにも、何とか工夫したいと思いました。

そこで挑戦したのが、透明ビニールマルチでした。

「ビニールができたから、かけてみた。そうしたら11月27日から収穫できるようになった」

9月3日に種を蒔き、10月はじめに植え付け、11月末には収穫。4月収穫が当たり前だった時代に、11月に収穫できるようになったのです。

しかし、最初は失敗の連続でした。

「午前中に植えて、昼見たら何もない。暑すぎて溶けちゃった」

9月、10月はまだ暑い。ビニールをかけると、苗がビニールの内側で焼けてしまうのです。

「それで、水をかけることを覚えた。植えた時に水をかけなきゃダメだって」

試行錯誤の末、ようやく11月収穫が実現しました。

「1番最初は一反くらい。年内にみんな売っちゃった」

11月にたまねぎが取れたのは、この地域ではしょうごさんだけでした。珍しすぎて、1個60円という高値で売れました。

「今なら150円くらいの価値だよ。珍しい野菜だった」

種取り ― 早く取れる種を作る

しょうごさんは、自分で種を取り続けてきました。

「早く採れるたまねぎから種を取れば、次の年も早く採れる。俺はそう考えた」

毎年、1番早く収穫できて、形が良くて、首が細いたまねぎから母球を選びます。

「形が丸くて、首が細い。これが良い母球」

母球を選んだら、ハウスに吊るして保管します。そして、適切な時期に植え付け、花を咲かせて種を取ります。

「消毒は1週間に1回。虫を入れないこと、病気を入れないこと。これが大事」

花が咲いたら、ビニールをかけて雨を防ぎます。

「花が咲いてからはビニールをかけて、雨がかからないようにする。ビニールをかければハウスみたいに暖かくなって、花が早く咲く」

種の収穫時期も重要です。

「早く刈ると良くない。まだ茎に養分が残ってるから。茎が長い分だけ、種に養分が行く」

長年の勘と観察力で、最適なタイミングを見極めます。

「6月の5、6日くらい。でも、もっと早い時もある」

こうして、50年近く種を取り続けてきました。

「ずっと自分で種を作ってきた。1番早く取れる種を」

土づくりの工夫

しょうごさんの畑は、土が肥えていました。

「たまねぎを採ったら、さつまいもの植え付け。さつまいもの間には、葦という草を毎日トラック3台分くらい入れた」

葦(よし)とは、草のこと。これを畑に入れることで、土を良くし、草が生えないようにしました。

「秋口には葦はもう腐ってるから、米ぬかもやる。それを10年間、畑に毎年入れた」

土づくりは地道な作業ですが、これが良いたまねぎを作る秘訣でした。

「畑が肥えてきた。それが1番大きかった」

種取りと蜂 ― 思わぬトラブル

種を取るためには、交配が必要です。しょうごさんは、蜂を使って交配していました。

しかし、ある時、蜂がうまく働かないという問題が起きました。

「蜂屋から蜂を借りて、毎年交配してもらってた。でも、ある時から蜂が出なくなった」

何度交換しても、蜂が活動しない。しょうごさんは原因が分かりませんでした。

後になって、隣の人がビニールを燃やしていることが分かりました。

「ビニールを燃やした煙が入ってきてた。蜂は煙が嫌い。特にビニールの煙は1番ダメ」

煙が残っているだけで、蜂は活動できなくなります。

「それが分かってからは、蜂はやめた。今は手で交配してる」

農協への出荷 ― 値段の波

当時も、たまねぎの値段は安定していませんでした。

「作っても作っても、安い時は安い。生活が楽じゃなかった」

しょうごさんは、冬の間は建設業で働いていました。

「11月15日くらいから3月いっぱいまで、土方に行ってた」

たまねぎの収穫が始まる4月までの間、副業として働いていたのです。

「公共工事がいっぱいあって、人手が足りなかった。だから、冬の間だけ働いた」

これを60歳くらいまで、30年近く続けました。

「たまねぎだけじゃ難しかった」

しかし、たまねぎが良い値段で売れた年もありました。

「昭和57年と63年. 全国的に不作で、1個60円で売れた。あの時は良かった」

ただし、これは稀なことでした。

「普段は保証があっても、生活は楽じゃなかった」

毎日が楽しかった

それでも、しょうごさんは農業を楽しんでいました。

「確かに銭にはならなかったけど、毎日がやってて楽しかった」

なぜ楽しかったのか。

「等級の悪いのが出なかった。良い玉ねぎが取れてた」

毎年、安定して良いたまねぎが収穫できる。それが何よりの喜びでした。

「やっぱり土を作ってきたから。それと、お天道様を見てたから」

畑に足を運び、たまねぎの様子を観察し、適切なタイミングで肥料をやり、水をやる。手を抜かない。

「手を抜いたところは、やっぱり良くない。等級が悪くなる」

子供に農業は継がせない

しょうごさんには、息子さんが2人います。しかし、農業を継がせるつもりはありませんでした。

「息子にはやらせる気はない。こんな体のきつい仕事はない」

しょうごさん自身も、現在はお体が万全ではありません。

「会社に行けば、年金で生活できる。俺は20年しかないけど、同級生は3倍も年金をもらってる」

会社員として働いていれば、社会保障もあり、年金も多い。しかし、農家は違います。

「死ぬ日まで現役で働けない。俺は実際に経験してる」

だからこそ、息子には会社員の道を勧めました。

「会社員の方がいいよ。社会保障もあるし」

1番大事なこと ― 畑に足を運ぶ

50年の農業人生を振り返って、しょうごさんが1番大事だと思うことは何でしょうか。

「畑に足を運ぶこと。これが1番だと思う」

どんなに忙しくても、毎日畑に行って、たまねぎの様子を見る。

「畑をよく見ること。それが1番大事」

そして、宣伝も大切だと言います。

「いくら良いものを作っても、売れなきゃダメ。消費宣伝をしなきゃいけない」

しょうごさん自身、テレビ出演や消費宣伝活動にも参加してきました。

先輩たちへの感謝

しょうごさんは、地域の先輩たちに恵まれ、自らも地域に貢献してきました。

「目をかけてくれた。種を分けてくれた。それがなかったら、今の俺はない」

開封検査の時代、先輩たちはしょうごさんのたまねぎを見て、評価してくれていました。

「ちゃんと選別してるって。それで目をかけてくれたんだと思う」

若い時に組合の世話役をしたことも、人間関係を築くのに役立ちました。

「年を取ると、若い時に世話してたことは悪いことじゃない」

地域のつながり、人とのつながり。それが、農業を続ける上で大きな支えになりました。

これからの篠原たまねぎ

今、しょうごさんは82歳。現在も種を作り続けています。

「種は今でも取ってる。1番早いのを」

そして、若い農家たちに種を分けています。

「俺の種が、この辺で1番早く取れる。それをみんなに分けてる」

50年前、先輩たちがしょうごさんに種を分けてくれたように、しょうごさんも若い農家に種を分け、この土地のたまねぎを未来につなげています。

「篠原のたまねぎは、ここだけのもの。大切にしていかないと」

あったか農場の思い

私たちあったか農場は、しょうごさんをはじめとする先輩農家の方々に、篠原たまねぎの栽培技術を教えていただき、種を分けていただき、育ててもらいました。

12年前、新規就農して右も左も分からなかった私たちに、この土地の農家の方々は温かく接してくださいました。

しょうごさんのように、誰にも教わらず、自分で試行錯誤しながら技術を磨いてきた先輩たち。その苦労の歴史の上に、今の篠原たまねぎがあります。

33歳で会社を辞めて農業を始め、50年間、毎日畑に足を運び、たまねぎと向き合ってきた人生。現在も続く1月収穫という奇跡を生み出し、種を守り続けてきた執念。

その志を、私たちは受け継いでいきたいと思います。

篠原たまねぎという特産品と栽培技術を、後世に残していく。それが、私たちの使命だと考えています。

しょうごさん、そして先輩農家の皆様、本当にありがとうございました。

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あとがき

このインタビューを通じて、この土地の先輩が歩んできた農業のリアル、大変さ、そして尊さをあらためて感じました。

毎日畑に足を運び、たまねぎの様子を観察し、試行錯誤しながら技術を磨く。体力的にも精神的にも厳しい仕事ですが、それでも「毎日が楽しかった」と語るしょうごさんの言葉が、心に残ります。

篠原たまねぎを作り上げてきた、この地域の農家の方々の歴史。その一端を、記録として残すことができたことを嬉しく思います。これからも、篠原たまねぎを大切に育て、多くの方に知っていただけるよう、努力していきます。

あったか農場 渥美隆裕 渥美敦子

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